宇宙塾 卒業作文「コスミック・ラブレター3」
2011/12/23
Aki
1 「情動記憶」への刷り込み
常識に隠された洗脳は、もはや感情レベルへの刷り込みを自覚せねばとつくづく思う。
例えば、如何に現在の常識というものが何かの都合で作られて来たものかということが、インターネットの世界になって幾つか明らかになってきたと思う。もちろん、フェイク(偽映像)などもその手の筋の人たちが作っているので何が真実なのかなんてことは、考えても無駄なのだ。とてもどれが本当の歴史であるかとか、写っている物が真実かなんて、本質的にはどうでもいいのだろう。なぜならば、それが本当かどうかなんて区別がつかないからだ。
UFOや宇宙人が作り話であって、ネット内にある陰謀論や歪められた歴史感を正すブログなどが真実に近いかもしれないなどとは言えないだろう。例えば「従軍慰安婦問題」などというだけで、一般的にはタブー、NOを表明させられているが、実際は、朝日新聞の報道のためにその言葉が作られて、日本のある部分を攻撃するために戦後作られた単語である。その後、韓国内でも政治的な様々なことに利用され、もともと日本で作られた言葉が韓国の生き証人が言い出したかのようになり、進む方向も分からず事実を検証するより言葉が一人歩きしている状態だ。(原発の「冷温停止」も同じような運命を辿る言葉だ)それでも韓国内の研究者で、日本に有利になるような「従軍慰安婦問題」について史実を根拠に反論し批難されている学者も何人かいる。常識を刷り込まれたアカデミックの世界は遅れている部分もあるが、それでも真実だと思われることにアプローチする努力を続けている学者もいる。
量子論の出現やニュートリノの報道でアインシュタインの相対性理論は破られて、物理学などの理系アカデミックな学会では、どのような議論が出てきているのだろうか、大いに興味があるところだ。
現在、私は大学院で研究しているアカデミックな分野でも、常識を覆すような話が出てきているのをリサーチすることがあり、その過程で知り得たことを少し書いてみたい。
2 ナチスは本当に悪だったのか
私の専門は舞踊創作法であり、日本のモダンダンス歴史とその創作法を成人学習論として有効利用について研究している。日本のモダンダンスのルーツにはドイツの表現主義モダンダンスが関係しており、その旗手であったヴィグマンという舞踊家を調べていくと、1930年代のナチス・ドイツとの関連が着目される。
日本では洋舞としてバレエもダンスも20世紀初頭の同時期に輸入され区別がないが、そのあり方からいって、バレエは王権主義の象徴的ヒエラルキーをその構造をもっており、ソリストであるプリマバレリーナを頂点にした三角構造を持っているが、かたやダンスは個人の声を代表し感情を共有し、コミュニティを広げるものであった。当初、ダンスの表記方法である記譜が発達したために、あちこちのコミュニティ(共産党の入党パーティーやカトリック教会での入会式など)の様々な部分でダンスが使われるようになった。それにヒントを得て利用したのがナチスで、ユーゲント教育にヴィグマンのダンス・エクササイズが使われることになった。ユーゲント活動の口実のもとに、それまで外に自由に出ることが出来なかった女性や青少年が公然と外出できるようになり、また、群舞などの集団行動による個人の能力向上の作用により「情動」に刷り込まれたイデオロギーは自動的にナチスを疑いなく支持するようになっていた。そのためドイツ各地の劇場では、舞踊家などの芸術家を公務員にするようになり教育も無料化で、その制度がナチス政権崩壊後の今日でも続いており、その経緯が知られてないのは驚くべきことである。
これは、ナチスは結果的に悪だったが、ナチスが行なった物事で良いと思われることがいまだに残されているわけで、ナチスのやった行為を都合良く認めたりしているわけだ。ドイツだけでなく日本にも、ナチスの御用学者や医師のアイデアであった「優生学」から断種や堕胎の「国民優生法」が1940年から施行されており、現在は「優生保護法」から「母体保護法」と名前を変えて存続している。
皆、口ではナチスは悪だと言いながらも、現行の法令にナチスの影響を受けた制度等を現在も使っている矛盾があることを知っているナチス・ドイツに関する研究者はかなり存在する。その研究者達の論文を見ると、むしろ現代より充実したナチス時代の庶民生活が伺える面もあり、研究者たちが大手を振ってナチス時代の善行を報告出来ない状況が伺える。
3 「自覚」と残されている命題を「楽しむ」
矢追先生の言われた「馬鹿」なんだから、という言葉がある。小賢しく考えても「馬鹿」なんだから、たいしたことは出来ないという。だが、賢くありたいと私はいまだにあがいている。賢いとはどういうことか。洗脳を外し、世の中を楽しむようにチョイス出来ることかもしれないが、色んな言い方で、我々は奴隷であり「馬鹿」だということへの自覚は大事なのだろう。
現に世間でも、前述の優生学で突きつけられた倫理観の問題は、いまだに議論の最中だし、クローンやDNA改良問題についても、バイオテクノロジーの発達と共に更にもっと深刻な問題を突きつけられている。それこそナチス時代に培われた理論や技術が、芽を摘んだつもりでも、あちらこちらにいまだに根付いている証拠があるからこそ、批判や肯定を自由自在に出来て、それを自覚出来ることが重要なのだろう。ナチス・ドイツが目指したというユートピアと人間の改良などが、実際には名前を変えて進みつつあるわけだ。もう止められないかもしれないが、New World Orderから幾つも出てくる条約、例えばTPPなど「知る」ことの「情報の罠」にはまりつつ、どれが良くて悪いかを理論的に考えるパズルで遊びながら、直感的に個人的に充実した世界をイメージして現実化することを楽しめるようになった。
要するに私の場合は、矢追先生から学んだ遊び心で「楽しむ」というのが答えであった。
以上
今回はちょっと理屈っぽくなってしまいましたが、書いてみたい内容の1つでした。
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